第1回 美優誕生

アシスターズプロジェクト が発足し、
実行委員にお声掛けを頂きました。

上坂実行委員長に書いて下さいと
言って頂きましたので、
娘、美優の誕生時のことや、
小さいときのことを少し振り返ってみたいと思います。

あっ、不定期で少しずつ書きますので、
お許しを・・・。


「美優誕生」

当時の育児日記を見ながら、
美優の生まれたときのことを思い出しています。


1996年12月31日に生まれた娘は、今年20歳になります。

40週お腹にいたのに、生まれたときは1950gでした。

生まれてすぐにNICUに運ばれましたが、
翌日、元旦の朝に片肺が破れて、さらに大きな病院へと運ばれました。

自力呼吸ができず人工呼吸器がつけられ、酸素濃度は100%。

「今夜 がヤマです」と夫は言われたようです。

まだ見ぬ娘の状態が、あまり良くないと聞き
「神様、どうか命だけは助けて下さい」と
私は出産した別の病院で必死に祈りました。

その後、すぐに自力呼吸もできるようになり、
命の危機を脱出しましたが、
生後一カ月のときに、先天的に障がいがあると告知されました。

21番目染色体の片方の上下が欠損し、
くっついて丸くなっているという21番染色体環状線(21リングモノソミー)

報告例だけだと世界で100人ぐらい(当時)。
「例が少ないので、この先、歩くのか話すのか分からない。
大きくなるのは難しいかもしれません」と言われました。

私は目の前が真っ暗になりました。

「どうして、こんなバチがあたったんだろう。
私は何にも悪いことしていないのに」と言う私に、
夫は「バチなんて言ったら、この子がかわいそうだ。
この子はきっと大きな使命を持って生まれてきたんだよ。
大丈夫だよ」と言ったのでした。

私は泣きながらも
「命だけは助けて下さい」と神様にお願いしたのは自分なんだと思い、
また夫の「大丈夫」という言葉に
大きなチカラをもらいました。


もちろん、すぐに立ち直ったわけではありませんが、
「きっと大丈夫」そう思えるようになりました。

入院中は体調を崩しては良くなっての繰り返しでした。
絞った母乳を冷凍して持っていき、鼻からチューブを母乳を入れました。
最初は6ccからスタートでした。
3ccずつ母乳を増やして行くのですが、

量が増えると体調を崩してしまい、母乳ストップ。
治ってまた始めると、また調子を崩す…。

検査の結果、乳糖不耐症だということが分かり、
母乳はあげられなくなり、大豆のミルクに切り替えることになりました。

チューブを使いながらも哺乳瓶で飲む練習も始まりました。
でも、口から飲むことは、本当に苦手でした。

娘は必死に飲んでいるようですが、
かなり力が弱いのかミルクが減らない。

私も必死でした。

面会は1日2回で午前と午後、時間が決まっていました。

会える時間は全部会いたくて、
私は午前の面会をすませると、病院でお昼を食べて、
また午後も面会しました。

未熟児で運ばれても、
保育器の中でどんどん成長する赤ちゃんも多く、
あとから来た赤ちゃんも退院していき、
なかなか大きくならない娘に不安になることもありました。

また、同じように何らかの障がいを
告知されている方もいて、
休憩時間をともに過ごすお友だちもできました。

亡くなってしまう赤ちゃんもいて
お母さんの泣き叫ぶ声に涙したこともありました。


体重が2000gを超えたのは2月14日。

誕生から1ヶ月半、
ほとんど体重が増えていなかった。

あきらかに他の元気な赤ちゃんとは、
様子が違う娘。

泣き声は、ほとんど聞こえない。
手が上に上がらない。
身体がとても硬い。

そして、弱い・・・。

発熱、下痢、何度も調子を崩して、
そのたびに落ち込んだけれど、
看護師さんもドクターも深い愛情で
娘に接して下さり、私たちを励まして下さいました。

沐浴やチューブ挿入の練習を夫婦で何度もしました。
そして、やっと待ちに待った退院許可がおりました。

退院は4月1日 、
生後3ヶ月のときで、やっと2700gになっていました。

もう桜が咲いていました。